2021年7月 28日『瓶詰地獄』
お空を眺めると勿忘草色。目を凝らすと縹色も見えてくる様でございます。
このまま目を凝らせば、黒い宇宙を超えて極楽の蓮池へと繋がってしまうのではないかと思うと途端に恐ろしくなりました。
御釈迦様は文月になると、稲の穂がつくのを見守るために一層丁寧に蓮池から下を御覧になります。
御釈迦様の清らかな後光が、私にじくじくと刺さって倒れそう。
蟻を悪戯に焼き殺すほど熱い光が中庭に降り注ぎ、混凝土の陽炎がゆらゆらと舞っております。遠くの道が捻れて見えて、そこに行けば捻れて溶けて極楽へ行けるのではないかと思うと、途端に希死念慮が湧き上がってくるのです。日々の学校生活や生徒会、字やバレエのお稽古の疲れが溜まっていて、今日は本当に、本当に疲れていました。
今日はテストを教室にいる誰よりも早く終わらせました。
それからは、学校の廊下を跨いで見える中庭の、南方へ旅行にでも行けば嫌でも目に入ってきそうな毒々しい赤色の仏桑花だとか、向かいの3年塔のお姉様方が授業を受けていらっしゃる横顔だとかを空空眺めておりました。
演劇で一緒のお姉様方は、誰一人として私に由縁の紫のリボンを送ってくださいませんでした。けれど、それでいいのです。
私はお姉様方が嫌いで嫌いで仕方がないのです。セーラー服を着ている間くらいは、マリアでいたいものではないですか。なのにお姉様方、折角真っ白できめ細やかな百合を持っているというのに、それを自ら踏み躙って。
受験戦争でおかしくなられたのでしょうか。お姉様方、耐えてくださいまし。全てを投げ出してしまいたい衝動は誰にでもあるもので、そこで投げ出してしまったものというのは、自分の一生の中で一番を争うくらい大切なもの、というのがお約束ですよ。刈り取られてしまった花は枯れるのを待つだけ。枯れゆくのも愛してくださる人でなければだめ。私だけが運命を背負うのなんて嫌。一緒に背負ってくださる方でないと嫌。
お昼休み。担任の先生に呼び出しをくらいました。昼休みの過ごし方について質問されました。"友達がいないから仕方なく本を読んでいる可哀想な子"ですって、わたし。可哀想な子ですって。先生は私に、女王とそれ以外が側から見てもはっきり分かる、あの蜂の巣へ行けとおっしゃっているのかしら。あんなの花でも華でもないわ。
扉の前で屯している女子の横を通って、取っ組み合いをしている男子を避けながら、いつもの様に図書室へと向かいました。小汚い廊下、そこら中ヒビだらけで汚らしい。掃除当番の子は仕事をしていないでしょうね。箒を持つ女生徒の、あの両腕の角度、髪の揺れるの、スカートから伸びる脚は上履きの先でしなやかな曲線を持っているのに。でも、それを無意識のうちにできる子なんていない。掃除をしている時に、自分の足の角度まで気にするなんて、よっぽどの自己陶酔者しかいないでしょう。私のような。あれを無意識にできる人がいたならば、その人は本当のマリア様なのでしょうね。
でも、無意識下のうちで、美しいのは常にじゃなくてもいい。玉響だけでも、美しかったら、その美しさが脳に焼き付いたなら、その絵はその人のマリア様。どうか心の中に秘めて。記憶だけで完結させて。どうか、綺麗なままの記憶を形に出そうなんて思わないで。もっと恐ろしいものになって、私のように苦しむことになるから。
先生、私は何かの罪を犯してしまったのでしょうか。それとも、生まれてきたこと自体が罪なのでしょうか。いつかきっと、天使が私の前に舞い降りて、私はマリアになるのだとお告げが来るのを待っています。だって、私だけがこの学校で唯一の白百合なのですから。私だけがスカートの裾を折る馬鹿な真似はしていないのだから。
今日は、日本文学の棚の前に立ちました。森鴎外の『舞姫』の一頁目を開いて、ああ。読めやしないわ。
私の頭が足りなすぎる。夏目漱石の『吾輩は猫である』は、最後に猫ちゃんが死んでしまうのが嫌だわ。
棚の前でもたもたしていたら、すぐ近くにいたマリお姉様が本を選んでくださいました。マリお姉様のことは好き。呪いが好きで、清楚なお姉様。その時お勧めされた数冊の本の中で、手に取ったのが後の私の愛読書、夢野久作『瓶詰地獄』
一体何処に救いと絶望が同時に訪れたことを<天と地が裂けて、神様のお眼の光と、地獄の火焔が一時に閃き出た。>なんて書ける人が、一体何処に高貴で清らかな兄妹の人生をあの様に美苦しく書ける人がいるのでしょうか。
神から与えられた文才とはこのようなものなのかと言わざる負えないのが恨めしい。『瓶詰地獄』が、夢野久作が、乙女の感性をその鋭く研いだ鉤爪でぐちゃぐちゃと引っ掻き回したというのに、当の本人は既にこの世にはいないのだから、文句の一つも言えやしないのがもどかしい。
嗚呼なんてことでしょう。神様仏様釈迦様、私はもうマリアになれないのです。
それは最後の審判の日のらっぱよりも怖ろしい響ひびきで御座いました。私たちの前で天と地が裂けて、神様のお眼の光りと、地獄の火焔ほのおが一時いっときに閃ひらめき出たように思われました。内側から破壊されるように、全身の細胞という細胞が全て死んで生まれ変わり、細胞質が沸騰し核が弾け飛ぶように白百合は自滅しました。この衝撃は、世界中のどんな残忍な拷問の刺激よりも痛く、私に恐怖と絶望を与えるのです。ぐちゃぐちゃに掻き乱され、骨灰だけがそこに残った時、私は不死鳥の如く蘇りました。新たな私が誕生した瞬間でした。
キュウカンチョウだの鸚鵡だの、絵でしか見たことのないゴクラク鳥だの、おいしいヤシの実もパイナップルも、バナナも赤と紫の大きな花も香気のいい草も、あの恐ろしい文章を読んでから何時何時でも港の岩の隙間には麦酒瓶がフジツボを付けながら固く挟まっている情景が思い出されて、楽しめた試しがありません。南国の葉が生い茂って、朝霧がかかり、葉に朝露がついてキラキラと輝いています。生暖かい風が優しく漂う、極楽のような場所なのに、なんとも言えない気持ちの悪さ。海は透き通った翠玉色、神様の足台に登りお祈りをするために頭を下げれば、底の見えない海からフカが二、三匹泳いでいるのが見えるでしょう。
極楽の島。二人の島。地獄の島。まだ幼い兄妹。上等の絹の下着はボロ布の様になり、ハチミツの肌は珊瑚の角に引っ掛けて傷だらけ。聖書はただの灰と化し、あるのは一本のエンピツと、ナイフと、一冊のノートブックと、一個のムシメガネと、水を入れた三本のビール瓶。
今も何処かの暖かい無人島には兄妹の使っていたエンピツやナイフやムシメガネが転がっているのではと、二、三匹のフカが静かにぐるぐると泳ぎ回っているのではないかと、そしてどこかに令息令嬢の御姿があるのではないかと思うと、真夏の正午だというのに背筋が冷たくなるのです。
予鈴が鳴り響くのを聞いて初めて、私は読み終えた本の表紙を見ながら座っていたことに気がつきました。
窓の外は相変わらず強い日の光が差し込み、プールになみなみと張られた水が反射して海の様。
飛び込み台を神様の足に見立てて、瓶詰めのゴッコ遊びをしたら、私の中で続いている瓶詰めの地獄は消えてくれるのかしらと思いました。けど、そんな悪趣味な遊びに付き合ってくださるような素敵な相手はまだいなかったことを思い出しました。
PS:今日配られた図書だよりに「今学期最も本を借りた人」として私の名前が載りました。
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